人と接するにあたり、最も潤滑な関係を築く重要な部分が何かと考えてみると、やっぱり『笑いのツボ』やと思います。趣味が合うとか、芸術的感性が合うとか、色々あると思いますけど、でもやっぱり接するということは基本は会話に始まり会話に終わるわけです。そしてその会話が大事な部分っていうと、緩和の部分なんですよね。その緩和が同じタイミングで訪れないと、どこかギスギスした空気になってしまう。分かりやすいんですよね、すごく。自分が笑ってても相手が笑ってないと、辛いし、気持ち悪いですよね。それだけで決め付けるのもどうかと確かに思いますけど、でもそれだけで今後の関係も決まってくるような気がします。だから、ただ一方的に相手を面白くもないのにいじったりする人は苦手です。少なくとも、その時の俺はあまり笑ってないからです、内面は。何でそこまで踏み込めるの?って思います。ああいう時って、みんな何考えてるんだろう。

その人がどれだけの物を創ったり、偉業を成し遂げようともそれはその人だけの力ではない。世の中にある人工物のほぼ全ては、幾多数多の人たちによる様々な試行錯誤の積み重ねに因って出来ている物質であることは否定できないわけです。たった1本のボールペンからして、そう。そう考えると、人一人が自分の力だけで成し遂げれる領域なんてたかが知れていて、大事なのはそこからどれだけ他人の力を盗むか、というよりも受け入れることが出来るか、だと思います。

それを忘れなければ、今あるどんな物にだって、刺激を受けることだって出来ると思うんです。

アンテナ登録されてたら更新しなきゃって思うじゃないですか。
まぁそれは良いんですけど、ありがとうございます、ところで昨日早速内容が分かりにくいって言われました。そんなもんですよね。いや、特に分かりやすく書こうと思って書いてるわけではなく、何ていうか、自分自身が理解できたらええやっていう次元で指を動かしてるので、仕方ないかなと思います。『自分だけが理解できたら』っていうのも傲慢な話ですけど。まぁ結局ここは傲慢に独りよがりでやっていくつもりの場所です。
でも、それって、ワッペン。とそんなに変わらんか?まぁええや。人に文章を晒すってのは元来そんなもんですよね。

はじめてみたよ

いくらどんな人が突拍子も無いことを行動してみたりしたとしても、周囲の人たちは普通じゃないって思うかも知れないけれど、その当人の世界ではそれが当たり前の世界なんですよね。普通じゃいたくない、という言葉は世間の目に対する、発する言葉であってそれを意識すればするほど本人は自分すら見失いかねないわけですよ。つまり自分で自分を普通の人間じゃないって自覚してしまう人は他人によって作られた自分なんちゃうかって思うのです。多分、「俺は普通じゃない」って常日頃公言してる人に対する違和感があったんですが、そういう事じゃないかなって、書きながら思いました。
そんなことを、つらつらとここでは書いていこうと思っています。